Villains and politics

オウガバトル64より、ボルドウィン・グレンデル。私としてはもう女性にしか見えなくなってきている今日この頃です。というわけで本日、かつてネットで三大タブーの一つと言われた政治の話を、「なぜ私は悪役に心を寄せがちなのか」に絡めて記事にします。長いです。
 

悪役への同情

私は何となく気付いた頃から物語の悪役に心を寄せる事が多いな、と感じるようになりました。これはきっと、「私の性格がヒネているから、悪役に同調してしまうのだろう」と長らく思っていました。が、どうも違うなと、最近思うようになりました。

というのも、掘り下げて振り返ると実は基本的に悪が苦手なんです。
なのになぜ一部の悪役に心を寄せるのかというと「もしかしたら、この環境さえ無ければ、この人は悪に手を染めなくて良かったかもしれない」という想像と「主人公を引き立たせるためだけに設計された悪、単純な仮想敵として都合のいい悪と設定されたようにしか見えない悪役がいる」からです。

私が物語を楽しむ時、大抵は登場人物全ての立場に立って全容を見ます。生育環境などを加味してもどうしようもない悪はさておき、無理矢理悪として仕立てられたようにしか見えず、悪に染まらずに済む可能性があったとしたら、その人を救いたいと思ってしまう。
言ってしまえば「倒れた敵に手を差し伸べるヒーローの姿」が私の思想に組み込まれているからにほかならず、結局のところ私は正義感の強い子どものまま、正義を重んじるタイプの人間で、架空の話であろうともキャラクター一人一人を人間として捉えているため、一部の「悪役」として設計されたキャラクターに思いを寄せてしまうのでした。露悪的なニヒリズムや冷笑主義的な力に憧れるという性質ではありません。

だから擁護しようもない悪は苦手ですし、「悪は別の形の正義」などとも思いません。他者を見下し、害をなす悪は悪です。

まず前提としてヒーローが悪を打ち倒すのは、力なき人々=他者を救うためであって、正義の人として崇め奉られるためでは無いと思います。ヒーローが人々から救世主と呼ばれるのは行いの結果、結果論であって、この他者評価という結果が目的になるようなヒーローは私にとってのヒーローではありません。
そして敵対していた筈の悪が「力なき人」になる事もままあります。そうなってしまえば、たとえ敵であったとしても、救いの手を差し伸べようとするのもまた、ヒーローのあるべき姿ではないかなと私は思います。
そういう物語は今もありふれている筈なのですが、どういうわけか「自分がヒーローになって無双して、人々から崇め奉られたい」という自己中心的な欲望を隠しもしない、ある意味清々しい欲望に塗れた「正義」の物語が、今は主流だなとたまに感じます。
個人的にこの流れをあまり歓迎していません。

というわけで、ここからはかつてネット三大タブーと言われた政治の話になってくるので、ご注意下さい。

政治と生命・人権

約四半世紀にわたってネットをしてきて破らなかったこのタブーをとうとう破る時が来たか……。とはいえ、政治は生活に直結している事なので、ふんわりした形では常に触れていたとは思います。という前置きはさておき、私の記憶が確かならば、日本においての主権者は国民一人一人であり、一握りの人間や国王及び独裁者では無い筈です。

私が税金を納めているのは「安心・安全」を保障して貰う為です。
決して「身分や存在を保証してもらうため」という封建的な感覚からではありません。

キリスト教社会において人権は生まれながら神によって保障されています。一神教の無い日本においての人権は戦後の憲法によって定められたものであり、一神教における定義と同じく(というより輸入して)「人権は生まれながらに保障され、誰も奪う事の出来ない権利」だと認識しています。それゆえ、納税しているか否かで本質的な存在意義は左右されません。

私には先天性の重い病を持って生まれた妹が居ます。であるからか、生死については小さい頃から常に考えざるを得ない問題でした。当然子どもだったので、「妹ばかりずるい」などと思う事もありました。私自身、かなり贔屓されて育てられたにも拘わらずです。母が妹に付きっ切りだったので「取られてる」という感覚もあったのかもしれません。子どもですね。

私は物心つく前から絵が好きだったのと同様に、ゲームが好きで、本の虫でもありました。ある時、妹があまりにも本に興味を示さないので素朴に母へ聞きました。根治手術を終えた妹は、一見すると何の問題もない子どもに見えます。だからこそ不思議で「何で妹は本を読まないんだろうね」と。すると母は「外からはわからないけど、あの子は今、息をするのも精一杯で、本に興味を向けているような余裕が無い。本を読むあんたが恵まれているだけだ」と言いました。

特撮ヒーローが好きだった私としては非常にショックでしたし、大変恥ずかしく思いました。生まれつき力の弱い人に対して「なぜ強くなって自分で自分の身を守らないのか」などとヒーローは言わないでしょう。言った時点でヒーロー失格です。そういう「力なき人」を守るためにいるのがヒーローであり、現実世界の「力ある人」の使命だと私は思います。それゆえ私は自己責任論が苦手です。

力なき人に心を寄せる事が出来なくなった時点で、その人に正義はありません。

警察署に勤務し始めた時は「小さい頃から爆発音が苦手なビビりなのに、なんでよりにもよって銃を扱う警察に」と思っていたものでしたが、私の強すぎる正義感・まだまだ狭い視野を矯正するには正しく行くべき現場だったと、今は思います。
世の中には想像以上に辛い目にあっている人が多いです。そして他者を虐げ、権力に媚びへつらう、あるいは権力を振りかざす人達もまた想像以上に、素朴に存在しています。

話は前後しますが、そうして色々な出来事を経ていく中で医療系の道に進む事を志した学生の時期は、医療系の本、主に生命倫理に関する本も読み漁りました。結果として受験に失敗して、単純に好きな文学の道に進む事になったものの。医療に関しては、答えの無い問いがそこら中に溢れていると思いました。

というわけで、私が税金を払っているのは「明日もし私が働けなくなってしまったら」のためであり「今困難を抱えていて辛い思いをしている人の生活を少しでも保護する」ためです。転ばぬ先の杖でもあり、他者の事が気がかりだからです。
なので、「高額医療費を削ろう」だとか「医薬品を保険適用外にしよう」などという議論は、私にとって端から議論の俎上にのせるべきではない、論外も論外である話です。

お年寄りが病院に溢れている事の何が問題なのでしょうか。これまで必死に働いてきた、いえ、働いていなくても必死に生きてきた人達が医療にかかる=救いを求める事の何が駄目なのでしょうか。命にかかる行いを、無駄であるかどうかを決めるのは本人であって、他人にその権利はありません。
終末期医療・延命治療を選ぶのは国民一人一人の権利です。たとえ9割が望まなくても、1割の望む人に対して医療保障をするのが、民主主義のもと人々から委託されて国家を運営する、力ある側の責務でしょう。

「犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日」は、是非おすすめしたい一冊です。もし延命治療に対する補償をやめろと言っている人達がこれを読んだとして、その上でなお言えるのか、甚だ疑問です。医療を選ぶ権利は一人一人にあります。苦しみの中にある人達へ、負担を制度化して押し付けていいものではないと思っています。

無自覚な宗教国家

ボジョレー・ヌーヴォーの如く「過去最高の税収」を記録している現在、削るべきは生命に関わる項目ではない筈で、少子化を憂うのであればまず、内発的な倫理観の希薄さや価値観の刷新と、社会構造をどうにかするのが先だと思います。
人権を保障する憲法はほぼアメリカから齎されたものです。日本が自発的に先の戦争を反省して生み出したものではない。押し付けの憲法だという声もありますが、それほど日本において個の人権意識と倫理観、内省というものが希薄な証左ではないでしょうか。
00年以前まではまだこのあたりの一線を保てていたのに、今保てなくなってきているのは、のど元過ぎれば熱さを忘れるからなだけに思えます。逆に言えば、敗戦で痛い目を見て戦後の辛い時期が身に染みていた時だけは、漸く国=絶対神であるかのような呪縛から逃れて「個の人権を大事にするべきだ」と、思えていただけ。なのかもしれません。

日本に宗教は無いとよく言われますが、日本に生まれた人は生まれながらに神道の枠組みに組み込まれるシステムになっています。生まれた土地の氏子に、自然となります。EUの一部国家に教会税があるように、日本も地域のコミュニティに入るとお祭りのためとして神社への寄付金を一緒に徴収されていました。今どうかはわかりません。お祭りは楽しいイベントですが、元々は神道の神事です。
つまり日本は強固かつ無自覚な神道国家であり、神道には明文化された教義が無いがゆえに可視化し辛く、「なんとなく指導者についていけば大丈夫」というふわっとした認識のもと、国学の発展を経て唐突に教義を作り出し、天皇を現人神とまでして祭り上げて暴走したのが第二次世界大戦であると私は認識しています。
明治以降の日本政府がしてきた事は無自覚な(あるいは自覚的な)、攘夷論由来の神道の無理な一神教化・国教化であったと思います。八紘一宇などという言葉にそれが表れているでしょう。かつての中華思想とほぼ同質の、自己中心的な全体主義思想をオブラートに包んだだけの言葉です。華夷秩序から抜け出そうとして結局同じような思想を国内で作っただけなのですから、何の解決にもなっていないし何も抜け出せていない。
私も毎年初詣には行きますし、宗教を否定はしません。ですが、用法容量を守って自覚的に扱うべきかと思います。
八百万の神と定義する多神教を標榜するのなら、我々全てが、そして世界中全ての人々が八百万の神々の子孫なのですから、尚更そこに優劣がつく筈が無いでしょう。

自分、という個は何にも代えがたい存在です。それは他者もまた同様です。

今自分の暮らしが苦しいのであれば、批判の目を向けるべきは、「過去最高の税収」をさっぱり活かせない政治と、「主権者である国民から投票によって業務を委託されて政治を行っている政治家」に対してであり、同じ主権者である一般人・民衆に対してではないと思います。まして外国人のせいでもないでしょう。
たとえばゲームの「システム」に問題が発生した際「他ユーザーが悪い!」とはあまり思わないでしょう。開発と運営の問題です。罵詈雑言は当然言ってはいけない事として、不具合が起きた時に「運営さんは頑張っているんだから」というユーザーばかりになったゲームは、大体サービス終了の末路を辿っているでしょう。反省できない改善できない、好意的(声の大きな)ファンだけを見る。だから終わる。それと同じ事だと思います。
そしてもしこの矛先を、「力なき人々に向けること」を煽動し、まるで戦時中のように非国民などと称して仮想敵にしようとしている者が居るとしたら、その人間は紛れもない悪です。
このような悪を支持すれば、いつか自分が「力なき人」になった時、自分自身が追われる事になる。一生壮健なまま人生を終える事が出来る保証は誰にもありません。後々支持した事が間違いだったとわかったとして、煽動した人間は何一つ責任を取ってくれません。そして、その報いはいずれ自分自身に返ってきます。かつての敗戦時のように。その時になって真に批判すべきだった存在に気付いても、もう遅いのです。

余談ですが、私の父方の曾祖父は近衛兵でした。一方、母方の祖父は恐らく外国にルーツのある人でした。目の色が生まれつき灰青色で、幸か不幸かその外見ゆえに徴兵検査で落とされました。そしてその上で財産を供出させられました。体制側と、排除された側のどちらの血も私に流れています。
※故郷のある集落には、一定数青や緑の目と白い肌の人達が居ます。かつて南蛮貿易を盛んに行っていた土地なので、定住した欧州系の人もそれなりに居たからかと思います。

少子化と表現の自由

表現の自由と少子化問題についても似たようなことが言えると思います。
表現の自由とは、他者を害しない限りにおいて個々人の思想信条の自由を認めるものです。エロ表現だけに特化したものではありません。「ファシズムはエロ表現の規制から始まる」などという言説も飛び交っていますが、私にしてみれば「倫理観の無い無節操なエロ表現というサーカスの蔓延こそが批判的思考力を奪い、表象として客体化された女性を『国の侍女』という『子(労働奴隷)を産む道具』と見做す事を厭わない意識を醸成する、全体主義とファシズムの始まり」としか思えません。
人は易きに流れます。エログロというものは安易に感情を刺激するため、人を惹きつけ易いのです。そしてその刺激に慣れてしまえば、人はフィクションで表されたエログロ行動を当たり前と思いこむようになり内面化してしまう。そして一定数の人は現実でフィクションの模倣を行うようになる。だからこそ表現としては慎重に扱わなければならない。

フィクション上で女性表象を客体化してしまい、物のように扱う事を是とする価値観が蔓延したらどうなるのか。
女性の客体化というのは、人権を軽視する全体主義やファシズムと相性が良いのです。
ナチスは女性達に子どもを産む事を奨励してきましたね。これが女性の「道具化」でなくて何なのだと言うのでしょうか。そして「倫理観の無い無節操なエロ表現=女性表象の客体化」は明確に、女性という性別を道具化する「間接的加害」であり、表現の自由にはあたりません。

また、藤子・F・不二雄のSF短編漫画を読むだけでもわかりますが、昭和の時代には「人口が増えすぎて困る」と人口増加が社会問題になっていたようで、間引きをテーマにしたものがあるあたりからも見てとれます。
その時代から見れば人口の減少は喜ぶべき事態ではないのでしょうか。
という皮肉はさておき、少子化を問題視している人達の中で「母体となる他者女性の人権」を考えている人はどれくらいいるのでしょう。
私には「国体維持のための労働力(健康な奴隷)が必要」だから少子化を憂えているようにしか見えません。そしてこの考えは、何度も言いますが、ただのファシズムの萌芽です。

ところで、女性の置かれている苦境、特に被害に遭いやすい女性について語ると「男性だって苦しいんだ!」という声がよく聞かれます。
既存の「男性とはこうあるべき(強い家長であるべき)」という、固定された性役割に異を唱えるのは良い事だと思います。男性といっても個人差があるのですから、こういった固定観念は解体された方がいい。
ただし見誤って欲しくないのは、向けるべき矛先は性役割を維持している社会構造であり、それによって「更に」虐げられている女性ではないという事です。
女性の訴えに乗っかったり、更には封殺してまで自分の苦境ばかり主張するのは、女性を「女性とはこうあるべき(全体への奉仕者であるべき=だから自分の訴えに一番に同情するべき)」と、男性達を苦境に追い込んでいる価値観と同質のものに押し込めて、依存しているだけでしょう。
「(更に)力なき人(=女性)」より、「男性とはこうあるべき」という性役割構造を作っている言論者や権力者に反旗を翻し、立ち向かうのが筋だと思います。
「力なき人」を責めるのはお門違いです。

歪んだ憧れと陶酔

正義が嫌いな人はそんなに多くないと思います。誰だって自分が正義の側でありたいと思うでしょうし、善人でありたいと思うのではないでしょうか。

社会は大抵可視化され辛い小さな善意が積み重なって作られていて、見えないところで小さな正義が行われています。そうした可視化され辛い行いというのは、歴史という大きな流れの「物語」の中において殆どないものとして扱われてしまいます。
しかしそうした行いをする人々が居たからこそ目立つ英雄が登場する土壌が生まれたのであって、小さな積み重ねこそが人類の文化と生命を存続させてきたのだと私は思います。

中学生の頃、何かの行事用に大縄跳び、八の字跳び的なものの練習をしていました。一年生でありながらバスケ部のレギュラーとして活躍していた子がその中に居たので「部活に行きなよ、たぶん本番でも失敗しないだろうし」と声をかけたところ「僕が一人抜けたら、その分皆が回る速度が速くなって困ると思うから」と言われました。そういう小さな、目立たない優しさこそ善行だと思います。

こういった小さな善行や小さな正義を行う事は、そんなに難しくはありません。
募金箱に一円入れるだけでいい。今日の皿洗いを自分でやるだけでいい。もっと言えば、自分自身の存在を認めて労わってやるだけでいい。
でも案外、この小さな行いが出来なかったりもしますし、目立った華やかな正義の方ばかりに憧れるという風潮がどうしてもあります。
なぜ目立った正義に憧れてしまうかというと、それが手っ取り早く自己肯定感を押し上げ、承認欲求を満たす手段だからではないでしょうか。

長々と語ってきたとおり、ヒーローとして崇め奉られる事が目的となり、正義が手段になってしまった時点で、それはヒーローの行いではなく、正義でもなくなります。
なのにこの正義の形を歪めてまで承認を過剰に求め、自己肯定感を上げる事を他者に依存する。それは、自分で自分を労わり、自分で自分の存在を認める事が出来ず、自分に自信が持てないから。人間一人一人誰しも持つ孤独に、自ら立ち向かえないからなのかなと思います。自分の弱さを認めるのは、私の想像以上に難しい事なのかもしれません。

その結果、他者に依存し他者を責め他者を害し、犯罪に発展して最後には戦争を求める。ただの悪に終わるだけの事なのに、結果が出るまで正義だと信じて疑わない。
自らの孤独に立ち向かう事の出来ない人は、案外救うべき「力なき人」であるのかもしれません。そういう人々に必要なのは、力ではなく愛であり、医療やカウンセリングであると思います。そして自らの弱さを認めて他者を、制度やサービスを頼る事は、決して恥ずかしい事ではありません。

フィクションが人々に与えてしまう影響は、思う以上に大きいものです。
手軽に強者になれる異世界転生やざまぁが流行ったのが先か、それとも社会が貧しくなっていくと同時に精神的な余裕が失われたのが先か。きっと後者なんでしょうね。
社会が貧しくなり、生活が厳しくなり、小さな善を行う心の余裕も無くなる。更に今はSNSもあって、著名でない人でも有名人になれる機会がある。SNSでは大抵の人が「自慢できる事」しか言いません。中には虚飾や虚偽も含まれます。これが、より著名で、より金や力を持った「成功した何者か」になりたい・何の努力もせずに何かを得たいという欲望を肥大化させる要因の一つとなったとも思います。
陰謀論めいた無理筋な仮想敵を設定し、それを攻撃する事が正義であると煽動すれば、少ない努力で目立つ正義の側になれて手軽に他者評価を得る事が出来る。カンパだとか投げ銭で金を得る事も出来ますし、権力者として君臨する事も出来てしまう。

現実はフィクションではありません。ですがフィクションの中のキャラクターを貶める事から、現実の人間を貶める事が始まります。悪役だからといって適当に描いたり、話のシステムや背景に目を向けずにこき下ろしていいとは思いませんし、「聞き分けのいい」女性像を作り出したり、エロ消費のために身勝手に扱っていいとも思いません。
地道な努力を放棄して、華やかな結果と偽りの正義の力に憧れ、あるいは露悪的で冷笑的な悪の力に憧れ肯定し、フィクションと親和性の高い陰謀論に耽溺する人が増えれば増えるほど、善意で成り立つ社会と、正義の定義の崩壊も始まるでしょう。
オレオレ詐欺という、人の善意を弄ぶ詐欺が始まった時点から、モラルや正義の崩壊も始まっていたのかもしれませんね。

仮想敵や空想の正義はゲームの中だけで十分です。

私が小さい頃は「思いやり」という言葉をよく聞きました。最近、この「思いやり」という言葉をあまり聞かなくなったなと思います。
正義感で暴走して、ヒーロー気取りで取っ組み合いの喧嘩もしょっちゅうしていた幼少期の私を思い留まらせて内省させ続けてきた戒めは「思いやり」という言葉でした。

何が正義で何が悪なのか見誤る事無く、一人でも多くの人が、他者を思いやり、自分を思いやれるような世の中になっていく事こそが、現在の苦境を打開する唯一の方法なのではないかな、と、私は思います。