己の偏見と言葉

 


偶々ふと思い出して、小学生の頃から描き続けている創作物語の過去イラストなどを漁っていました。どういう話だったかな、とメモ類を見ていたら、大昔のブログ記事のログや本の感想メモを発見しまして。愕然としました。

穴があったら入りたくなるとはまさにこの事。いくら若い時分だったとはいえ、あまりにもあんまりな幼稚ぶりで「よくも恥ずかしげもなく、こんな傲慢極まりない思想に満ちた文面を表に出せたな……」と思うと同時に「今こうして綴っているブログ記事も、いや自分の行いの全てもまたいつか、同様に苦々しく思う日が来るのだろうな」と、若干暗澹とした気持ちになりました。

一つ気付いたのは、言葉の端々に見られる内面の傲岸不遜ぶりもさながら、言葉が汚く理路に乏しい事。具体的に言うと、まずブログにおいて所謂ネットスラング(「w」など)やネットミーム、オタクスラングを多用していました。一人称もおかしかったです。そして感想文では一応一人称を「私」として丁寧な言葉を使っているものの、その丁寧さは慇懃無礼と言うほかなく、文面から浅慮ぶりがにじみ出ていました。

スラングを使うのがよくない、と言うわけではありませんが、少なくとも私はそうして言葉を疎かにした結果、自己正当化を主目的として自分の内面と深く向き合う事も出来ず、思考がより先鋭化し、短絡化したのではないかと思えてしまいました。

当時SNSはmixiくらいしか存在していませんでしたが、思想の偏りと驕りの醸成は何もSNSやネットだけの特性でもありません。そのような言葉遣いや偏狭な思想を咎める人もいない状況で、壁打ちのように偏った考えを発し続けて増長した結果なのだろうと思います。

それはそうなんですよ。仮の名前であるHNと文面と、わずかな画像のみで知り合った関係性です。知人の誰かがとんでもない言動をしていたとして、真面目で慎重な人であればあるほど、一々嫌われたり、時には逆恨みされるリスクを負ってまで咎めようと思わないでしょう。精々、そっと離れていく程度です。当時仲良くして下さった皆さんも、そして今も繋がりを持って下さっている皆さんにも、恐らく相当の負担をかけてしまったでしょうし、申し訳なく思うばかりです。

恐らく完全に公平公正で偏りのない人というのは、中々存在しないのだろうと思います。今回のような問題を最小限に抑えていくために大事なのは、自分の偏りを常に己に問い、自覚する事なのでしょう。

ともあれ、古い創作を懐かしむ楽しい時間がほぼ消える程度には、過去の自分によって冷や水を浴びせられたような気持ちになった昨日でした。

余談ですが、当時の創作や二次創作をするにあたって読んだであろう学術書の感想が大量に出てきました。感想としても無自覚に攻撃的で、評論にしても論拠にも乏しい、恩師が見たら呆れるような自論をぶちまけていたので頭を抱えたくなりました。そしてそういう乱暴な読書というものは、書名すら覚えられないほど記憶に残らないのだな、とも思った次第です。読んだ記憶がまるでない。

折角本を読むのなら、フラットな気持ちで読みたいものですね……。